日本交通労働組合の紹介

委員長吉永利秀
副委員長早川広之
副委員長島田史朗
書記長高野豪博



住所東京都港区芝大門1-6-1芝大門エフビル4F
電話03(5472)1165
FAX03(5472)2238
メールアドレスatu.nikko@rfzp.ftbb.net


■活動
 1.事故・違反を起こした時の対策
 2.労働条件・職場環境の改善
 3.共済会(道交法共済、全労済共済)
 4.文化行事
  2月:スキー大会
  3月:ボウリング大会
  4月:お花見
  5月:バスハイキング
  6月:カラオケ大会
  7月:地引き網
  12月 :囲碁・将棋大会

[ 2013年06月01日 10:49 ] カテゴリ:概要 | TB(-) | CM(-)

日本交通労働組合 概要

 日本交通労働組合が誕生したのは、まだ太平洋戦争の余燼くすぶる1946年。戦後の労働組合運動の嵐のような高揚の中で結成された。
 太平洋戦争中、東京都内のハイヤー、タクシー56社は、警視庁の大統合命令で、中野相互系、日東系、京成系、山種系の四グループに整理統合された。1945年8月15日の終戦後、この中の日東自動車を中心に11社、車両534台、従業員427人で設立されたのが日本自動車交通株式会社(日本交通の前身)だった。
 労働組合運動が全国のあらゆる産業で盛んになり、ハイタク産業でも次々と労働組合が結成された。
日本交通では、終戦翌年の1946年2月1日、各営業所の代表が集まり、労働組合結成準備会を持った。そして3月10日、牡丹雪が空襲の焼け跡を真っ白に化粧した日、築地河岸の京橋公会堂で日本交通労働組合の結成大会が開かれた。当時は12支部、427人の組織。
 1949年から1950年にかけての日交労組の年末年始闘争はかつてなく激しかった。無期限ストを構えてストに突入、その3日目に組合は分裂した。当時社内の東急系会長派と川鍋秋蔵社長派の抗争に組合が巻き込まれたのだ。しかし、この分裂はほどなく再統一することができた。 
 1960、全旅労連は全自交労連に、関東同盟(元、東京同盟)は東京地連に改組された。翌1961年に当時の日交労組委員長、長谷川清が全自交代表としてモスクワの世界労連大会に出席した。
 1971年2月26日日交労組は組合創立25周年記念集会を駿河台の全電通会館で、また記念レセプションを目白の椿山荘で開き、盛大に祝った。71春闘では車両に貼るステッカー闘争、8時間スト、24時間ストを闘い、政策要求のための国会請願なども展開した。ところが、その陰で日交労組の分裂がひそかに画策されていた。
 1972年春闘で、日本交通労働組合は重大な試練に直面した。組織分裂が起こったのである。
 72春闘で日交労組が加盟する全自交東京地連は混乱していた。日交、帝都、大和三労組の集団交渉は経営側のかたくなな壁を突き破れずに失敗した。
 東京地連は交通ゼネスト直前の4月25日、重大な方針転換を行った。「実績に上積みした回答が出たときは、戦術をダウンする」と決めたのだった。経営側の圧力に負けて、指導性を放棄し、共闘を解体し、交通ゼネストから離脱したのは明らかだ。
 これを待っていたかのように、大和、帝都、日交の三社は「7000円の賃上げプラス交通費4200円(それまでは2000円)」を回答した。大和、帝都は早々と妥結、ストを中止した。ただ一つ、日交労組だけがストライキは回避したものの、妥結には至らなかった。
 こうした雰囲気の下で、日交労組の内部では、ひそかに分裂が準備されていた。5月21日、丸の内、本郷、大手町、浜町、九段、溜池、池袋の七支部で日交労組からの集団脱退騒ぎが起きた。次いで24日には小石川、品川、蒲田、呉服橋、大曲、上野、神楽坂の七支部に飛び火し、脱退派はその日に第二組合、日交労働組合(日交労)を結成した。
 そして分裂は、この14支部に止まらなかった。当時38支部、4567人を擁した日交労組が、この年の9月にはわずか16支部、300人に追い込まれた。班長たちが脱退工作を大々的に始め、「春闘の賃上げ分7000円を支給するから、日交労組脱退届けと日交労加入届けに押すハンコを持ってこい」と強要したのだった。この工作は、どこの支部でも行われた。何のことはない、買収である。それでも当時の7000円は決して小さな金額ではない。脅しと誘いが効果を現した。班長たちは7000円入りの封筒を用意し、「第二組合に来たら春闘回答分を払う」「一組にいても7000円は出ない」と脅した。応じないと職制、班長、日交労組支部長から日交労支部長に変身した人物がつきまとい、家庭にまで押しかけ、250人以上の後楽園支部が33人に減った。
 本部でも支部でも、会社に屈伏した組合役員が雪崩をうって日交労へ走る中で、良心派の役員を中心に日交労組は団結を固め、直ちに反撃に出た。全自交加盟の全単組に支援を要請する一方、72年5月29日には、賃上げ分7000円による買収工作をはじめ会社の不当労働行為を東京都労働委員会に提訴、6月19日にも追加提訴した。本部は溜池からシオバラ外苑ビルへ移転した。8月7日から11日にかけて新事態に対応する組合規約改正の全員投票を実施、8月25日に千駄ヶ谷区民会館での臨時大会で新しい執行部を選出して体制を固めた。
 委員長には工場支部の三平英男、副委員長には京橋支部の坂口久、書記長には目白支部の元山光男が選ばれた。この3人は、再建執行部の中心として、その後、長期にわたって日交労組を指導する名三役となる。9月9日には、日交労組第27回年次大会を全自交会館で開き、三平委員長以下の新執行部の下に活動を始めた。
 こうした日交労組の早い立ち直りは、日本交通株式会社を相当にあわてさせたようである。組合大会に先立つ9月1日、東京都労働委員会に日交労組が申し立てた不当労働行為について、会社は子会社の日英自動車株式会社とともに和解に応じた。余りにも露骨すぎる分裂策動の「正当性」を、とうてい主張することができなかったからである。
 ところが、こうした日交労組の早い立ち直りに、本来手を貸すべき産業別労働組合、全自交は奇妙な動きを示した。日交労組の第27回年次大会の直後、72年9月11日に第二組合である日交労のオブザーバー加盟を全自交は承認する。大手の日交労組が少数派に転落したため、財政上の理由からも日交労の加盟が必要だったのかもしれない。
 しかし、資本の意図が露骨に働いている組合分裂を容認するかのようなこの措置は、まじめに闘う労働者を侮辱するものだった。全自交がこのような挙に出た背景には、社会党一党支持を固執する一部の幹部の根強い反共主義があった。
 このような全自交の一部幹部の裏切りとも言える攻撃にめげずに、日交労組は前進を続けた。
 日本交通労働組合は、まともな労働組合の大道を歩み始めたが、これを憎む会社の攻撃も熾烈になり、日交労組が体制を立て直して迎えた1973年正月には、支部の新年旗開きに会場を貸さないなど、職場組合員へのいやがらせ、新たな解雇問題の発生、スライド制強化による賃下げが強行されるようになった。73年4月には健康保険組合の代議員選出を完全連記制に改め、代議員に日交労組の組合員が立候補しても当選できず、日交労が独占できるようにし、より組織的な日交労組排除の動きを露骨にしてくる。しかし、日交労組はひるまず団結の輪を広げた。
 1978年10月13日に全国自動車交通労働組合総連合会(自交総連)が結成された。75年3月以降全自交から組織排除された社会党一党支持と反共主義に反対する潮流は、同年11月に「全自交労連の統一回復をめざす全国連絡会議」を結成、さらに76年に「全自交労連の統一回復と自交労働者の生活と権利を守る全国共闘会議」(全自交全国共闘会議)に発展させた。これを母体に自交総連ができたのである。
 全自交全国共闘会議は、全自交の統一回復をめざして、当時の総評や大産業別共闘である全交運にも調停を依頼した。総評と全交運は対策委員会を設置して、調停作業を始めたが、あくまで分裂の固定化をたくらむ全自交の一部幹部はかたくなに拒否した。このため77年1月26日には、総評、全交運は「調停不可能」と通知してきた。
 全国共闘会議は77年10月の第二回大会で、「実質的産業別組織としての主体性をもった立場で統一の努力を払う」こと、つまり単に全自交労連の統一回復をめざすだけでなく、自ら一つの産業別組織として「対等、平等の統一をはかる立場」へ移行する。「組織検討委員会」を設置してこの問題を討議するとともに、78年春闘では共通課題にもとづく共同闘争を全自交に申し入れるが、申し入れ文書はそのまま返送されてきた。
 もはや全自交の旗の下に再統一することはまったく不可能になった。全自交の一部幹部がその道を完全に塞いでしまった。ここへ来て、全国共闘会議は名実ともに産業別組織となることを決意する。全国共闘会議は結成当時の15地方・385組合・29000人から、この時には20地方・411組合・32000人余りに組織を拡大していた。闘う実質的な産業別組織に全国の期待が集まっていた。
 こうして、全国共闘会議は1978年10月13日に、自交総連を結成した。
 日交労組は東京地連とともに、この自交総連結成に加わった。第二組合、日交労を陰に陽に支援する全自交と決別し、日交労組は闘う産別の一員となった。
 97年9月1日に運賃値上げが実施。会社はスライド制「3000円の足切りアップ」(運賃値上げ分を会社が取り上げる悪い制度)を強行した。日交労組は組合の違いを超えてスライド反対の署名運動に取り組み、組織も拡大した。ねばり強く闘いをつづけ、職場の不満も日に日に高まっていた80春闘で、会社は「足切り幅を引き下げる」回答を出し、ノースライド闘争の勝利となった。
 しかし、その後も会社は「10分休憩で残業料のカット」「運賃値上げの度のスライド制」「就業規則の改悪」「上野公男(三鷹)のささいな理由での解雇」「でたらめな支給の爾後・回数手当」「2151(ニッコーイチバン)作戦キャンペーンに乗じた罰則の強化」「勤務成績不良者教育訓練実施要領」「ナイト乗務の強制」など様々な合理化・大改悪な提案をしてくる。その都度日交労組は知恵と団結で会社と闘い、83年の10月31日には第十日交労組と組織を統一した。
多くの仲間と共に日本交通労働組合結成から50年間、乗務員の生活を守る運動を続けてきた。その一つの節目として、1996年、日暮里のホテルラングウッドで、50周年のレセプションを523人(来賓・OB179人・組合員344人)の参加で開催した。

[ 2013年05月31日 01:44 ] カテゴリ:概要 | TB(-) | CM(-)


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